| □復刻版ブランデーケーキ 駅や市役所売店などの土産物として復活した、濃厚ケーキ。 昔の物に比べてフルーツとアーモンドが盛りだくさんで、日持ちもする。 |
昭和62年、松浦氏の長男にして二代目社長の「松浦幸雄」氏は、市会議員などを経て、高崎市長選挙に無所属として出馬。 まさかの57歳で初当選を果たしてしまい、福三郎氏の落選汚名を挽回する形で高崎市長となってしまう。 喜ばしいとは言え、大きくなり過ぎた工場とフランチャイズ店舗を支える次代が市長となってしまっては、会社運営も上手くは進まない。 すぐに次男が三代目社長となり引き継がれていくが、年号に平成を迎えて間もなく、松浦パンの創業者「松浦福三郎」氏は惜しまれつつ鬼籍に入る。 そして松浦市制は、政権交代の決め手となる対抗馬が現れなかったこともあり、24年間という大規模都市としてはかなりの長期政権となった。 創業者の逝去、後継者の市長選当選。順調に進んで行ったはずの製パン業の拡大は、少しづつ陰りを見せていくようになり、松浦食糧工業は「㈱群馬パンセンター」へと社名を変更。 マツウラの文字は消え、新しい屋号「トリアノン」が誕生する。 コスト面での削減も進められ、製造が難しかった「タイヨーレン」を廃止。「くるみパンドミー」と「レーズンハンドミー」の二分割する事で効率化を進めるが上手くは行かず、フランス国旗をメインとしていたロゴも赤一色へと変わっていった。 十数店舗にまで増え続けた店も、他の製パン業が店舗の拡大を続けた影響で少しづつ数を減らしていく。 特に昭和60年に創業した、横浜の味を届ける製パン店「フーケ」の影響は凄まじく、近隣の埼玉・千葉・栃木にまで出店を重ね、県内では初となった移動販売車「夢添加 パンまる」も登場し、フランチャイズ店舗は松浦パンだけの物ではなくなった。 |