給食の中止によって、消え行くパンの名は「タイヨーレン」というレーズンとクルミの入った食パンだ。 これを手掛けているのが「群馬フードサービス」という、群馬県高崎市にある新設の会社。 前身の松浦パンが破産した事により、一部の屋号を引き継ぎパン工場の経営を始めて5年目。 立ち上がったばかりの企業に襲い掛かったのが、本来の主力となるの給食の中止。 これにより、今回の騒動で数千個の給食パンは関税法の関係で販売する事も出来ず、全て廃棄された。 ・休校延長 突然の波紋 再開予定が一転 給食パン大量廃棄 (上毛新聞ニュース) 緊急事態宣言が解除され、給食の再開の目途は立ったものの、いつまた休止するとも限らない。 新規立ち上げの工場が給食を停止されて頼れるものは、委託店舗や直営店でのパンの店頭販売のみ。 数少ない売り上げに翻弄される工場を前に、この企業の辿って来た道はどんな物だったのかを振り返ってみたい。 |
日本でパン食文化が広まったのは、江戸末期の事。 出島等での伝承的な物から始まったパン作りは、戦用の兵糧(堅パン)としての需要を求められ、少しずつ幕府の間で浸透していく。 だが、元来の米食文化が息づいた日本人にとって、明治の時代を開けても西洋式のパンは受け入れられず、ついはパンはビタミンの豊富さから「脚気を治す薬」としての扱いを受け、民衆の間に広まる物は、堅い非常用のパンだけだった。 小麦文化は鎌倉時代から日本に根付いていたものの、どうしても西洋式の堅いパンは好まれず、輸入小麦の消費は菓子方面に廻されていった。 この問題に立ち向かったのは、銀座キムラヤの創業者「木村安兵衛」氏だった。 明治2年、日本で初めてのパン屋「文英堂」を開店させた木村氏は、度重なる火災による建物の焼失にもめげず、日本と西洋の新しい懸け橋となる新時代のパンを模索。 日本人の小麦文化に注目した木村氏は、饅頭の工法と発酵方法に着目し、お米と麹から作られる酒種成法によるパンの発酵技術を編み出す。 饅頭にヒントを得た新しい菓子パンは、日本式のパンとして庶民に受け入れられ、やがて明治天皇に献上された事で認知されていく。 文明開化と西洋文化の発展の末に生まれた、全く新しい国産製法のパンは、富国を訴える日本の強国さを諸外国に知らしめていった。 しかし、当時の海軍がパン食を積極的に取り入れた関係で、横浜や神戸への広がりは見せたもの、地方に製パン技術が普及するのはもう少し先の話になる。 未だに、小麦の製粉機や焼窯等は輸入に頼っていたため、都内でさえパン屋が街に並ぶまでの出足は非常に重く、パンは高級な菓子や土産物でしかなかった。 ようやく明治16年に、国産の製粉機が出回るようになり、翌年には「製パン同業組合」が発足。 だが、富国強兵を訴えた日本は戦地へと赴くようになり、明治27年には日清戦争が開戦。 パンは再び、主食から軍事用の備蓄乾パンとしての需要を求められる。 転機が訪れるのは、戦火も落ち着いた明治30年。 凶作などの影響により、米不足に悩まされた日本に「米騒動」が起きた。 元々、過去にも続発していた事件ではあったが、日清戦争に勝利し、国内が潤っていたため自然と「コメからパンへ」と産業が移行していった。 |