| □タイヨーレン 松浦パン時代から続く、名物のローカル食パン。 当時の販売名は「太陽連」としていた。 昭和中期から平成初期まで販売。百貨店の人気商品だった。 群馬フードサービスになってから復刻され、販売再開。 特に焼き立ては格別で、クルミのカリッとした食感とレーズンの酸味がトーストにもよく合う。 |
空っ風の影響で稲作に向かず、小麦の栽培に適した群馬県には、独自の粉もの文化が発展していた。 米を主食とする他県に対し、粉ものも主食の一部となり、副産業が農業よりも養蚕頼りな部分も多いため、うどんにすいとん、おっきりこみといった地粉グルメが作り続けられた。 独自の「焼きまんじゅう」等が店先を立ち並ぶこの地では、パン屋と呼べるものは有っても長続きはせず、どちらかと言うと洋菓子店の延長線上を辿っていった。 そんな中、一軒のパン屋が高崎城址の南銀座と呼ばれる地に、店を構えた。 当時の高崎城跡地は、乃木将軍に従軍した事でも有名な「陸軍歩兵第15連隊」の駐屯地だったため、自然と店舗に兵士が溢れ繁盛していく。 (日英堂のビル) 元々、現在も北関東最古のパン屋として続く「日英堂」がパン文化を広めていた事も有り、米不足に怯える人々の間に降り立ったパン食は、粉もの世代の若者を中心に受け入れられ、安価で良質のパンを模範として業績を伸ばしていった。 鶏をマスコットにした黄色い看板をあしらい、苗字をそのまま屋号にしたお店の名前は「松浦パン」と名付けられた。 この店の創業者「松浦福三郎」氏の登場によって、群馬県のパンの歴史は大きく動き出した。 そして明治42年、小さな店舗だった松浦パンは「松浦食糧工業㈱」として会社を興すまでに発展を遂げた。 兵士たちが買っていくパンは、庶民の主食へと移り行き、松浦パンは群馬県の産業の一つとなった。 それに追随するように、現在も続く目白の老舗「関口フランスパン」で学んだ「宇佐美藤吉」氏は、一つ離れた県庁所在地前橋市に、暖簾分けとも言える店舗「前橋フランスパン」をオープンさせた。 (参考リンク) 「関口フランスパンの歴史」 前橋と言えばフランスパン、高崎と言えば松浦パン。近年まで続いていた両社の戦いは、互いの魅力を吸収し進化していく。 やがて、他の店舗も味以外の見た目や上品さを追求するようになり、日本式のパンから西洋式の上質さを取り入れるように群馬の製パン業は変化していった。 単行本(実用) ル・コルドン・ブルーのフランスパン基礎ノ / ル・コルドン・ブルー 太田の「新田製パン」等の進出も加わり、昭和9年には今も残る「このえパン」が高崎に店を構える。 産業として大きく飛躍した群馬県のパン業界は、昭和16年に設立された「全国製パン組合連合会」に加盟し、松浦氏を代表とした「群馬県製パン業組合」が発足した。 これまで争っていたパン業界は団結し、松浦氏はそのリーダーとして躍進していった。 |