群馬フードサービスとタイヨーレンの歴史


□たっぷりチーズパン
 とりせん群馬町店での期間限定商品。
 ギッシリと詰まったチーズの上に、大量の白ごまが載せられてレンジで温めると熱々のチーズがとろけ出す。
 ハーフサイズとロングサイズの二種類が有り、ベーコンチーズも。

第4章「群馬パン協同組合の結成」

 米や麦が政府の管制課に置かれるようになった、昭和19年。

 戦火が強まるにつれ子供たちへの栄養は極端に不足し、飢餓問題にまで発展していく。
 そうした中で生まれた取り組みにより、中止されていた
「学校給食の再開」が実現する。
 食糧不足が続く中、米に代わる代用品としてパンが求められるようになり、子供たちの手に「給食パン」が帰ってきた。

トレーディングフィギュア 学校給食/食パン 「タイムスリップグリコ第2弾」

 米穀通帳と原料の不足に悩まされ、混乱が続いていた製パン業会の中、松浦氏が率いた
「群馬県製パン業組合」はこれに応え、群馬県での学校給食は広まっていった。
 かつてのライバル「前橋フランスパン」の宇佐美氏と共に、数少ない原材料を求めて政府との交渉を続けていき、群馬県の学校給食の基礎を作り上げていく。

 翌年に終戦を迎えると、国内は更なる食料危機を迎えた。
 アメリカの占領下となった日本へと支給されたのは、あれ程求め続けていた「パンを作るための小麦」と「脱脂粉乳」などの、輸入食材。
 すぐに松浦氏は全県を結束させるべく、盟友の宇佐美氏とともに
「群馬県パン協同組合」を昭和21年に結成。
 初代理事長として就任し、県内のみならず日本中の製パン業を再興するべく、尽力を尽くした。

 翌年には「学校給食委員会」が発足され、安全性や衛生面での強化が充実するようになると、ようやく県内にパン屋の明かりが灯り始めた。
 現在も続く給食パン業者「江木食品工業」等も登場し、商店街も活気づいた。

(グンイチパン等もこの時期から登場)

 そして松浦氏は政界へと進出し、昭和28年には高崎市議会長へと就任し、全日本パン協同組合連合会の会長に昇りつめた。
 このままの勢いで
高崎市長選へと立候補し、新たなる都市構想を目指して躍進を続ける。

邦画 VHSここに泉あり(’55中央映画)

しかし、戦後より活動を続けていた群馬交響楽団の前身「
高崎市民オーケストラ」の人気が高まり、楽団自体が昭和30年に公開された岸恵子主演の「ここに泉あり」のモデルとなった事で、市内に「名曲茶房あすなろ」が誕生。

(当時のロゴデザイン)

 
谷川俊太郎を始めとする数多くの著名人が来店する等、製パン業の躍進とは別に、市内では一大「地方交響楽団ブーム」が広がり、人々は産業よりも音楽を求め始める。
(復活した現在のあすなろ)

 これに付随する形で、市長選に出馬を表明した
住谷氏が、公共音楽施設の建設を目指した「大規模ホール構想」を訴え出た事により、松浦氏は選挙に敗北。


 住谷氏は宣言通り、奇しくもかつての松浦パン本店の近隣に「
音楽センター」を建築して芸術文化を飛躍的に発展させ、16年もその地位に就いた。

アイドル雑誌BOOWY HUNT 準備号

 その後は、伝説のロックバンド「BOOWY」誕生のきっかけになった「
高崎名曲堂」や「新星堂」の登場で「音楽の街たかさき」が、深く市民の間に定着。
 歌声喫茶やジャズ喫茶だけで名曲を楽しむ空間は、音楽センターでの定期演奏会やコンサートを開く場所へと大きく羽ばたき、現在では新たなる大規模ホール「
高崎芸術劇場」も2019年に建設された。

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