群馬フードサービスとタイヨーレンの歴史


□パリパリチーズ
 薄焼パンの流行により作られた、後期のおつまみパン。
 サクッとした食感と長いお得感から、息の長いロングヒット商品となった。

第3章「給食の始まりと太平洋戦争」

 歩兵第15連隊の兵士たちを中心に、県内に広がっていったパン食文化だったが、第一次大戦の戦火が広がるにつれ、貧富の差による欠食児童問題が全国で巻き起こった。

単行本(実用) なつかしの給食 / アスペクト編集部

 そして、群馬県内でも児童に安価で栄養を取って貰うための
「学校給食」がスタートしていき、松浦パンを始めとする製パン業者は大きなビジネスチャンスを掴んだ。

(給食のアイドル、ホイップパン)

 これまで店舗を増やす事でしか広げられなかった事業が、工場による大量生産で群馬県内の児童に「給食パン」を提供することが可能になっていく。
 軍事用の備蓄パンとは全く違う、子供に夢と栄養を与えるための新たな希望に満ちた「給食パン業」という道。

単行本(実用) フィールドワーク 群馬の戦争遺跡 / 第10回戦争遺跡保存


 しかし、戦火が進んでいくうちに給食そのものが中止となり、児童たちに与えられるためのパンは、めったに手に入らない
高級品となった。
 小麦の栽培自体の歴史は長い日本だったが、パンつくりに最適な強力粉を作るための品種は日本の気候に適さず、品種改良を経た現在でさえ困難を極めた。
 やがて、輸入小麦が手に入らないようになっていき、パンの味や品質は更に低下。更に、味を調える砂糖や塩。パンを膨らませるイースト菌は希少なモノになり、工場で備蓄パンを作る事さえ難しくなっていく。


(コッペパン等もこの時期に登場)

 ふっくらしたパンは贅沢品となり、良くて硬くて味の無いパンか、薄い味の すいとんが食卓に並び続けた。
 戦火が激しくなるにつれ、工場は軍事需要のものへと転換するか閉鎖を余儀なくされ、明るい未来を作っていたはずの製パン業は、軍隊のためのものへと逆戻りした。

 戦後も近づく昭和17年には、
「食糧管理法」が可決。パンを作るための麦は、生産者の物から政府が管理するものへと変化した。

歴史・文化太平洋戦争証言シリーズ4 日米戦の天王山 丸別冊

 これまで買い付けていた小麦だけでなく、本来の主食だった米までも全ては政府から配給されるものに切り替わり、お金の代わりとして「業務用米穀類購入通帳」の提示を求められた。
 外で食事をするのにも
「米穀通帳」の提示を求められ、強力粉の代用小麦で作っていた粗末なパンでさえ作る事も難しい。
 パン屋以前に小麦卸業者や製粉業者までもが、大きな方針転換を求められ、街角からパン屋の姿は消えていった。

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